「インセプション機」開発秘話2026.04.13

「バイオセンサー」とは、ウイルスや体の状態を示す物質(バイオマーカー)を数値として捉える、デンソーが開発中の独自技術です。 この技術をさまざまな製品へ展開することを見据え、パートナー企業様と技術の使い勝手を検証するフェーズの装置として開発されたのが「インセプション機(2025年度グッドデザイン賞、iF DESIGN AWARD 2026受賞)」です。 今回は、その中心となった開発メンバーが、「インセプション機」制作当時の様子やそれぞれの感じた課題などを語ります。

社会課題から始まった挑戦

―バイオセンサーは、どのような背景から開発が始まったのでしょうか?

写真左から
石黒 泰三(先端技能開発部):エレ設計(電子制御の設計)開発を担当
酒向 亮佑(先端技能開発部):メカ設計(機械構造の設計)開発を担当
中川 和久(社会イノベーション事業開発統括部):プロジェクトの代表として、事業化を担当
中村 和也(マテリアル研究部):コア技術の研究開発を担当
森川 堅斗(デザイン部):プロダクト、PRコンテンツのデザインを担当

中川:このプロジェクトのルーツは、2013年にまで遡ります。実はコロナ禍よりも前から研究開発が進められていました。

中村:最初は「交通事故をゼロにしたい」という想いから始まりました。運転中に心筋梗塞などの急病で意識を失ってしまう事故を防ぐために、体の小さな変化をセンサーで素早く見つけられないかと考えたのがスタートです。

中川:2019年頃、カーシェアが普及したことを背景に、「車内を清潔に保ちたい」というニーズからウイルス検知の取り組みは広がりを見せた印象です。
さらにコロナ禍を受け、培ってきた技術を「感染症対策」という大きな社会課題に役立てられないかと考えたのが今の形です。

―つまり、車の安全性から社会のウイルス対策にまで広がったのですね。

中川:はい。コロナ禍では人の移動が制限されて、社会全体が大きなダメージを受けました。ウイルスの状況をデータで正しく把握できれば、科学的な根拠に基づいて行動しやすくなります。「危機に強い社会」を作ることが、私たちの現在の目標のひとつです。

中村:2022年には技術検証のためのCOBOTTAを用いた卓上サイズの装置も制作しましたが、社会で浸透させるにはもっと扱いやすい小型の装置が必要だとも考えていました。

デンソーの協働ロボット「COBOTTA」を用いた装置(2022年度グッドデザイン賞、iF DESIGN AWARD 2023受賞)

社会に届く形は、「未完成」だった

―「どのように社会に届けるか」が課題のひとつにあったそうですが、デザイン部にはどのような依頼をしましたか?

中村:(デザイン部の)森川さんにはCOBOTTAの装置の際も手応えを感じていたので、「今回もデザイン賞を狙えるようなカッコいいやつをお願い!」と依頼しました(笑)。
フランクに頼みましたが、私のなかでは「このプロジェクトを多くの人に届けるにはデザインが訴求力になる」と確信していました。

森川:最初は、COBOTTAの装置の進化形として、病院などで専門の技師さんが使うような「完成された検査機」を目指せばいいのかなと思っていましたが、中川さんに同行し、パートナー候補の企業様にヒアリングするなかで考え方が変わってきましたね。

「完成された検査機」のイメージ

―社外ヒアリングの現場で、新たな気づきがあったのですね。

森川:例えばパートナー企業様のニーズは、必ずしも「完成品」ではないということです。家庭用の空気清浄機など、パートナー企業様の製品にバイオセンサーを組み込んで活用していただくための「部品」としての形が重要である。つまり、あえて未完成の形である方が社会に届くのだと気づきました。

中川:私たちのバイオセンサーは医療だけでなく、家電や食品など、さまざまな業界で使われる「共通部品」のような存在になるのが理想です。だからこそ、デンソーだけで完結させるのではなく、社外と連携して製品化していく「共創(きょうそう)」が欠かせません。

森川:そこで、「ここがデンソーのコア技術で、ここはパートナー企業様が自由に工夫できる余白ですよ」ということが一目でわかるデザインを提案しました。実際に検査機として使えると同時に、これを見た方が「自分たちの製品ならこう使いたい!」とアイデアを広げられるツールとして使える形を目指しました。

「コア技術」と「製品化への余白」を可視化したデザイン

開発メンバーが語る、それぞれの壁

―森川さんが参加する前からすでに、インセプション機の検討は進んでいたそうですね。
当時、それぞれが苦労していた点について教えてください

森川が参加前の初期プロト

中村:コア技術開発で一番苦労したのは「液体のコントロール」です。
ウイルスを測るためには、検体に試薬を混ぜて、複雑な化学反応を自動で起こす必要があります。液体と固体の粒が混ざり合ったドロドロした流体を、髪の毛ほどの細い管のなかで狙い通りに動かすのは非常に難しい挑戦でした。

酒向:私はメカ設計として、装置の大きさを「半分にしてほしい」と言われたのが最大の壁でした。
それまではデスクトップPCくらいのサイズだったのですが、実証現場に持ち運ぶにはもっと小さくしなければなりません。最初はモーターの数を減らそうとしましたが、それでは性能が落ちてしまいます。最終的には、「小さなモーターをたくさん並べる」という逆転の発想で、ティッシュ箱サイズにまで収められました。

石黒:エレ設計の視点では「再現性」、つまり誰が何度やっても同じ結果が出る仕組みを作ることに必死でした。
小型化に伴い、モーターや基板(回路の板)の仕様が何度も変わるなか、何百通りものパターンを検討しました。

中川:ビジネスの視点では、いまも実用化に向けた様々な課題と向き合っている最中です。
それでも前に進めているのは、2020年からの森川さんとの連携の中で「どれだけ壁にぶつかっても、最後は良いものができる」という確かな信頼があったからですね。

デザイナーが入り、プロジェクトが動き出した瞬間

―すでに様々な課題と向き合っていたなかで、デザイナーの参画は、どのような変化をもたらしましたか?

中村:森川さんが最初に出してくれたデザイン案を見たとき、「これだ!」と直感しました。頭のなかにあったふわっとした理想が、目に見える形になった瞬間です。あれでチーム全員のモチベーションがドカンと上がった気がします。

石黒:正直に言うと、森川さんの提案は技術的には「無理難題」のオンパレードでした(笑)。でも「コア技術をどう見せるか」という理由が明確だったので、やりがいもありましたね。
たとえば電子基板。普通は四角いものですが、デザインの丸みを実現するためにパズルゲームの「ぷよぷよ」のような曲線的な形にして、隙間にピタリと収まるよう工夫しました。

無理難題に応えた基盤

酒向:「ここを0.5mmずらしてほしい」などの細かい指示を受けても、その理由が「技術を際立たせるため」だと納得できたので、私も頑張れました。
メカ設計、エレ設計、デザインの3人で、1日中Zoomをつなぎっぱなしにして部品の配置を調整し続けたのも良い思い出です。

森川:装置内が部品でぎっしり詰まっているのを知っていたので、レイアウトを大きく見直すことになったのは申し訳なく思っていました。そんなときでも、皆さんが「どうすれば実現できるか」を自分ごととして考えてくれたのが、本当に嬉しかったです。

コア技術の開発拠点である先端研究所にも集まり、皆で手を動かしながら具体化

 社内共創で生まれたもの

―インセプション機の開発を経て、どのような手応えを感じていますか?

中川:言葉だけでは伝わらない技術の価値を、デザインが「見える化」してくれたと感じています。
専門的な説明がなくても、これを見た瞬間にパートナー企業様が「自分たちの製品にも使えそう!」とワクワクしてくれる。デザインが起点になって、新しいビジネスのアイデアが生まれていると感じています。

中村:技術者としても、自分たちが生み出した技術がより洗練された形になったことを誇らしく思っています。
機能を詰め込むだけだと専門外の人にはとっつきにくい機械になりがちですが、デザインの力で訴求力のあるツールになりました。

石黒:私は、あの丸みを帯びた「ぷよぷよ基板」を作ったことで、自分の設計の幅が広がりました。
これまでの「基板は四角いもの」という常識を壊して、新しいことに挑戦する楽しさと意欲が高まった気がします。

酒向:加工のしやすさよりも、「技術をどう魅せるか」を追求してモノづくりをする経験は非常に刺激的でした。
ミリ単位の調整を何度も繰り返し、目標だった小型化を形にしたことにメカ設計者としても大きな手応えを感じています。

―皆さんの力が合わさった結果、ふたつの受賞にも結びつきましたね。

森川:今回のiF賞は、デンソーが過去に獲ってきた中でも最高得点らしいです。まだ製品になっていない段階ですが、モノの姿形だけでなく、私たちの活動自体に価値を見出してもらったことを嬉しく思っています。

未来の仲間へ―デザインが社会実装を担う時代へ

―最後に、これからデンソーで一緒に働きたいと考えている方へメッセージをお願いします。

中村:今回のプロジェクトがここまで形になったのは、全員が役割の枠を越えて、深く関わり合いながら進められたからだと考えています。言われたことだけをやるのではなく、自分から「もっとこうしたい」と提案できる方と一緒に未来を作っていけたら嬉しいですね。

石黒:デンソーは、難しい挑戦に対しても背中を押してくれる会社です。自分の仕事が「社会貢献」に直結する手応えと、エンジニアとしての「開発者冥利」。その両方を味わいたい方は、ぜひ仲間に加わってほしいですね。

酒向:デンソーは、自分の「やってみたい」という想いを形にできるシステムや環境が整っています。多彩なメンバーのなかで、お互いを認め合ってコラボレーションできる柔軟な風土です。

中川:私たちは、ウイルスや体調の変化をデータで把握できる「未来の当たり前」を、社会で使われる仕組みとして形にできるよう取り組んでいます。まだ課題は多いですが、それをポジティブに捉えて「プラスの掛け算」ができる仲間と、想像の先にある未来を実現したいと考えています。

森川:デザイナーとしても、これだけ多くの専門家とダイレクトに議論しながらモノづくりができる環境は少ないように感じます。軸足となる自分の専門性を磨きつつ、違う分野との化学反応を楽しめる仲間を待っています。

インタビューの合間、隙あらば次回作の構想を始めるメンバー。専門を超え、未来を共創する熱意があふれていた。